広重 肖像画
三代 歌川豊国 画

広重、辞世の句

東路へ筆をのこして 旅のそら 
西の御国の名ところを見舞(みん)

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 初代、歌川豊国が中心となって発展させた浮世絵の最大勢力、歌川派で幕末に活躍した、三代豊国、国芳、そして広重らは歌川三羽烏と称されていた。それぞれ得意を豊国は似顔絵、国芳は武者絵、広重は名所絵との順位評価をされていた。当初、初代歌川豊国に弟子入りを請うたが門弟が多く願わず、十五歳の時、同門の歌川豊広に入門する。翌年、師豊広より広の一字を受け広重と名乗る

 広重は寛政九年(1797)、江戸八代洲河岸(八重洲河岸)の火消同心の安藤家に生まれる。幼名は徳太郎、長じて重右衛門、十三歳で家督を継ぎ、その後二十七歳で同心の役職を退くまで画業と公務の両立を果たしていたそうだ。  安藤広重と紹介されることがあるが、画人としては、やはり歌川派の歌川広重とすべきだろう。

 天保二年、葛飾北斎(72才)が「富嶽三十六景」を発刊した時と同じく、広重(35才)は「東都名所」を発表し風景画家としての評価を受ける。翌三年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、その行列に参加して上洛、東海道を往復した際にその印象を写生、翌年シリーズとして発表する「東海道
五十三次」に生かされる。

 当時、広重は尊敬していた、葛飾北斎のもとへよく教えを請うため訪れていたそうだ。40才近く歳のはなれた先輩、北斎老人に学ぶ広重が目に浮かび、なぜか感銘を受ける。

「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景、名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」溪斎英泉との共著「木曽海道六十九次」などなど次々と発表、晩年60才で制作を開始した「名所江戸百景」を
完成させた、安政5年、62才で永眠した。
当時、大流行のコレラにかかったと伝えられる。